東京地方裁判所 昭和38年(刑わ)2304号 判決 1965年5月29日
被告人 小寺正男
大二・一二・一生 会社代表者
荒木新九郎
大三・一二・二一生 会社役員
主文
1 被告人小寺正男を懲役二年に、同荒木新九郎を懲役一年に各処する。
2 但し、右両名に対し、この裁判確定の日から各三年間右刑の執行を猶予する。
3 訴訟費用中証人伊藤清一、同小出隆、同原山武および同前島正一郎に支給した分は全部被告人小寺正男と分離前の相被告人由良猛との連帯負担とし、証人福川一郎に支給した分は全部、被告人小寺同荒木の連帯負担とする。
4 被告人小寺正男に対する公訴事実中、同被告人が昭和三五年八月一五日ごろ群馬県前橋市本町二〇番地株式会社群馬銀行において同銀行常務取締役茂木憲二を困惑畏怖させよつて同人から現金一〇万円を喝取したとの点および同被告人が同年一〇月下旬ころ東京都中央区八重洲二丁目五番地フジ製糖株式会社東京本部において同会社総務部長篠崎秀之を困惑畏怖させるなどしてもつて昭和三六年九月二六日ころ同人から同会社経理部長柴田太郎名義の金額五万円の小切手一通を喝取したとの点について、同被告人は無罪。
理由
(被告人らの職歴、東洋経済興信所の状況およびその代表取締役鈴木一弘の会社、証券業界における風評等について)
被告人小寺正男は、昭和一〇年三月専修大学専門部商学科を卒業し、その後転々と職を変え、昭和三一年八月東京商工興信所の調査員となつた後昭和三三年九月、これよりさき鈴木一弘が経営していた企業開発株式会社が商号変更し東京都港区芝田村町一丁目一二番地徳栄ビルに事務所をおき(登記面は、東京都台東区神吉町一二番地所在となつている。)各種調査を目的とする東洋経済興信所が発足すると同時に代表取締役専務となつたもの、同荒木新九郎は本籍地の商業学校を卒業後昭和一二年上京して会社に就職し、応召、復員帰郷後日本通運に勤務したり食料品店を自営した後、昭和三二年上京して前記東京商工興信所の調査員となり、そこで被告人小寺を知り、昭和三三年九月東洋経済興信所が発足するや常務取締役として入社したものである。
右東洋経済興信所の資本金は前身の企業開発株式会社当時から八〇万円、発行済株式の総数一万六〇〇〇株(その後昭和三六年一二月に資本金三二〇万円、発行済株式総数六万四〇〇〇株に増資された)でその約八割を鈴木一弘が保有して自ら非常勤の代表取締役会長となり、他の二割を代表取締役専務である被告人小寺ら四名が保有していた。その事業目的は、(一)各種企業調査および人事に関する調査業務、(二)、各種刊行物の発行等で、その細目は業務案内によれば法人、個人の信用調査、結婚調査、雇傭調査、市場調査、素行調査、証拠蒐集、東洋経済新聞、不渡速報、興信録の発刊、経営相談というのであり、その料金規定は会員組織で、名誉会員は一〇〇万円以上、特別会員、普通会員はそれぞれ第一種、第二種、第三種に分れ順次、五〇万円、三〇万円、二〇万円並びに一〇万円、五万円、三万円となつており、それに対応して名誉会員には七五〇件以上、第一種特別会員には三五〇件、第二種一九〇件、第三種一二五件、普通第一種会員には六〇件、第二種二八件、第三種一五件のいずれも有効期間を一個年とする調査券を交付される定めとなつていた。なお調査員が会員を勧誘加入させた場合の入会金は一旦会社に入金された後その四割が担当者に歩合として還元される仕組みとなつていた。
鈴木一弘は自ら使用していた名刺によれば、株式会社鈴木総本社、房総観光産業株式会社、流山電気鉄道株式会社、啓東物産株式会社、啓東建設株式会社、啓東食品株式会社、川口織物株式会社、株式会社鈴木商会、株式会社東洋経済興信所の各代表取締役を兼ねていたほか、右興信所を各種銀行会社の企業経営状態や一般経済調査の機関とし触覚として昭和三四年以降比較的小資本の公開株式でなんらかの意味において面白味のある株式(例えば含み資産の大きい会社、過少資本の会社、放漫経営の会社、内紛のある会社、経営者に株式に対する関心の薄い会社等)を流通市場を通じて買い集め、買いあおり、株価がつり上ると機をみはからつて当該会社の関係筋に買取らせるやり方をする人物であるように風評されていた。このことは地方銀行や信託銀行等の横の連絡会である地方銀行協会や市銀協会および総務部長会等において評判となつており、また週刊紙や経済新聞紙などにも記事として取りあげられていた。従つて会社経営者間や会社の渉外部門を担当する職員の間ではかなり有名となつていたところである。現に同人は北越製糸一〇〇〇万株、日本化学四〇〇万株、北陸銀行一二〇万株、日本加工紙一五〇万株、静岡相互銀行四〇〇万株等一〇〇万株以上のもの約二〇社、それ以下のものを含めると一〇〇社を越える会社の株式を取得していた(ちなみに、鈴木一弘は、右の廉でそれが恐喝罪を構成するとして昭和三五年一二月東京地方裁判所に公訴を提起され、現に審理中のものである。)。
ところで、商法の規定するところによれば、株主はすべて株主名簿の閲覧請求権(法二六三条)があることは勿論であるとして、発行株式の一〇〇分の三以上を持つ株主は、いわゆる少数株主による総会招集の請求権があり(法二三七条)、発行株式の四分の一以上を持てば、いわゆる累積投票請求権があり(法二五六条ノ四、二五六条ノ三)、これにより多数派の取締役独占を阻止することができ、発行株式の一〇分の一以上を持てば、会計帳簿および書類の閲覧謄写の請求ができ(法二九三条ノ六)、また裁判所に検査役の選任を請求することができる(法二九四条)等種々の権利を有することになつている。しかしながら現実問題として、資本金数億ないし十数億程度以上のしかも多数の会社の株式を右各種権利を行使しうる程度に多数買い集めもしくは買占めて、これにより右各種の権利を行使することは資金的にきわめて困難であり、殆んど不可能に近いことは計数上明らかなところであり、このことは鈴木一弘にとつても例外ではありえないことを先ず指摘しておかねばならない。
(罪となるべき事実)
第一、これよりさき鈴木一弘は、昭和三四年六月八日三菱信託銀行株式会社(当時の資本金二四億円、発行済株式四、八〇〇万株)の株式二万株を取得し株主となつていた。(内訳、鈴木一弘名義五、〇〇〇株、房総観光産業株式会社名義五、〇〇〇株、米本健一名義一万株、なお米本健一名義の一万株は同月一二日天野英一ほか九九名に分割譲渡されたが、いずれもその届出住所が新宿区舟町六の五鈴木一弘方となつているので、単に分割のための分割としか考えられない。)。そして同三五年二月二〇日ころ同人名義で同信託銀行に対し東洋経済興信所の会員に加入するよう勧誘していたのであるが、同年三月上旬頃被告人小寺、同荒木は右興信所員福川一郎とともに右鈴木の添書を持つて、東京都千代田区丸ノ内一丁目二番地の一の同信託銀行を訪ね、同銀行総務部長代理菅野保二郎(当三七年)に面接し、右興信所の特別会員に加入し五〇万円の入会金を出してもらいたい旨申し入れ、これに対し菅野はすでに日本信用調査ほか数社の興信所に加入していてその必要がない旨を述べて断つたところ、その後被告人両名は再三にわたつて勧誘に来行し、菅野に執拗につきまとい、同月末頃、同都千代田区神田錦町一丁目一六番地資生堂ビル地下喫茶店において、右菅野が被告人両名と知人の弁護士溜池肇を混えて面接した際、被告人両名は菅野に対し、「先ず三菱をくどき落せば、他社も自らこれに右並えをする関係にあるから、是非加入してくれ、金額の点では考慮してもよい」と申し向け執拗に入会方を迫つたので、菅野は鈴木がすでに自社の株主となつていること、被告人らは鈴木を背景として来ているものであることなどを考慮し、これ以上断ると鈴木や被告人らから、信用を旨とする信託銀行として、その営業上どのようないやがらせをされるかわからないと困惑、畏怖した結果、やむなく一口二〇万円の第三種特別会員に入会することを応諾し金額が大きいので二期に分けて支払うことを約した。よつて被告人らは右信託銀行において同人から同年四月一二日ころ現金一〇万円を、同年一一月二一日頃現金一〇万円をそれぞれ受領し、もつて右入会金名義のもとに右金員を喝取した。
第二、これよりさき鈴木一弘は、昭和三四年暮ころまでに三井信託銀行株式会社(当時の資本金二四億円、発行済株式総数四、八〇〇万株)の株式二万六、〇〇〇株を取得し株主となつていた。また同三五年三月ころ東洋経済興信所社長鈴木一弘名義で同興信所を支援してもらいたい旨の文書が同信託銀行に送付されてきたのであるが、その数日後被告人両名は、東京都中央区日本橋室町二丁目一番地の一所在の右信託銀行を訪れ、同銀行総務部文書課長永田富蔵に面接し、右興信所の第一種特別会員に加入し五〇万円の入会金を出してもらいたい旨申し入れ、これに対して永田は鈴木一弘の前記のような風評を聞知していたので、無下に断われず、上司と相談することにして被告人らを一旦帰したのであるが、上司と相談した結果、その善処方を委任された同人は、鈴木がすでに自社の株主となつていること、被告人らは鈴木を背景にして来ているものであることなどを考慮し、もし右申し入れを断ると鈴木や被告人らから、信用を旨とする信託銀行として、その営業上どのようないやがらせをされるかわからないと困惑畏怖した結果、やむなく一口二〇万円の第三種特別会員に加入することを応諾し金額が大きいので二期に分けて支払うことを約した。よつて被告人らは同所において同人から同年三月二九日ころ今期分として現金一〇万円を、同年五月二日ころ来期分として現金一〇万円をそれぞれ受領し、もつて右入会金名義のもとに右金員を喝取した。
第三、これよりさき昭和三四年八月ころ鈴木一弘は、前記福川一郎名義をもつて日本信託銀行株式会社(当時の資本金一二億円、発行済株式総数二、四〇〇万株)の株式五〇〇株を取得し株主となつていた。昭和三五年五月二〇日右株式は鈴木一弘方に住所変更されたことから同信託銀行としては鈴木一弘が福川名義で株式を取得したことを知るにいたつた。一方、同信託銀行は被告人荒木新九郎の勧誘により金三万円を出金して東洋経済興信所の第三種普通会員となつていた。被告人両名は右株式の住所変更があつて、一、両日後の昭和三五年五月二一、二日ころ、東京都中央区日本橋通三丁目二番地の一の右信託銀行を訪れ、同銀行総務部次長兼文書課長中西秀雄(当五九年)に面接のうえ、二〇万円の会費に増額するよう申し入れ、これに対し中西はすでに入会していることを理由に拒否したところ、被告人らはその後再三にわたつて執拗に中西に面接して増額方を求めた。そこで同人は、鈴木が自社の株主となつていること、被告人らは鈴木を背景として来てるものであることなどを考慮し、もし右申し入れを断ると鈴木や被告人らから、信用を旨とする信託銀行として、その営業上どのようないやがらせをされるかわからないと困惑畏怖した結果、上司とも相談のうえ、やむなく金一〇万円の増金を応諾した。よつて被告人らは同年五月二四日ころ同所において同人より現金一〇万円を受領し、もつて入会金増額名義のもとに右金員を喝取した。
第四、分離前の相被告人由良猛(大正一一年七月一六日生)は、昭和三三年九月ころから東京都港区麻布六本木九番地後藤ビル内にある有限会社三協商事の代表取締役となり月刊の政経批判雑誌「ザ・クエツシヨン」の発行に従事するようになつた。同社は翌三四年一〇月ころ同都新宿区左門町一三番地にある鈴木ビルに事務所を移し、資本金一〇〇万円の株式会社三協通信社に改組したが、その運営資金は鈴木一弘からの金借によつてまかなつていた。同誌は定価五〇円で毎月の発行部数ははじめ四〇〇〇部ないし三〇〇〇部程度であつたが、その内容は概ねドギツイ暴露記事で、その売行きもきわめて悪く毎月五割ないし八割の返本を出しており、赤字経営を続けてきた(鈴木からの金借は、最終的には数百万円にのぼつた。)また由良猛は昭和三五年五月ころから、前記鈴木ビル内に資本金七五万円の株式会社合同通信社をも設立し、自ら代表取締役となつていた。
ところで、長野市大字南長野一、五九七番地に本店を有する株式会社八十二銀行は当時資本金八億円、発行済株式総数一、六〇〇万株の地方銀行で、鈴木一弘も多少の株式を取得し株主となつていたのであるが同銀行は、地元産業育成の趣旨のもとに芝浦化成工業株式会社に対し、昭和三五年五月ころまでに約七、〇〇〇万円にのぼる融資をしたがその回収に腐心していた。その情報をえた由良猛は、同年四月取材のため再三にわたつて同銀行を訪れ、また既刊の「ザ・クエツシヨン」を同銀行に送付したのであるが、その巻末には、次回は長野県の地元銀行の融資問題について解明するという予告記事を掲載した。一方、被告人小寺は前記東洋経済興信所の代表取締役専務として当時長野市に同興信所の支所を開設する計画を有しており、かたがた地元の有力銀行である右八十二銀行に同興信所の会員になつてもらうため同銀行に行く考えであることを鈴木一弘に伝え、由良も取材のため右銀行を訪ねる旨を鈴木一弘に伝えたところから、鈴木がそれなら二人で同行するよう指示勧奨した。ここにおいて被告人両名は相携えて同銀行に赴き同銀行の主脳者に面接し、前記融資問題にからませて右興信所の入会金ないしは賛助金等の名目で同銀行から金員をせしめようということになつた。そこで昭和三五年五月一三日、時あたかも右銀行の株主総会の前日、被告人小寺と由良猛および海谷秀(右興信所員)の三名は相携えて国鉄上野駅から列車で長野市に向けて出発し、車内において種々手筈を決めたうえ、同日午後同銀行に赴き、秘書役原山武、頭取小出隆に面接し、まず、由良において、頭取に対し「放漫貸出しによつて生じた芝浦化成に対する七、〇〇〇万円のこげつき債権について回収策はどうか」「頭取さんが本日私に説明できないなら明日総会の席上でお伺いしてもよい」等と強硬に申し向けた。これに対し、頭取は約七、〇〇〇万円の融資が残つていること、芝浦化成は再建の見込があり、従つて貸金回収の見通しもあるから騒がないで欲しい、また、記事にしないで欲しいと答えるや、由良はその場を外し、こんどは被告人小寺が話題を転じて長野市に東洋経済興信所の支所を開設することになつたについては、地元の有力銀行である貴行にも興信所の会員となつて支援して欲しいと切り出し、事柄が金銭問題となつたので、頭取は庶務部長伊藤清一を呼んで自分に代つて被告人に応待させた。すると同被告人は「さつき頭取に芝浦化成の融資の件について伺つたが東洋経済興信所の会員になつて協力願いたい」と切り出し、伊藤は同人が金を要求していると察して五万円の線を出したところ、同被告人は「桁が違う」といつて五〇万円を暗示し、「ザ・クエツシヨン」に書かれ印刷に廻れば買収するのに一〇〇万や二〇〇万の金はかかる。小さいことをいつているんじやためにならない等と申し向けて同人を脅迫し、伊藤において、記事にしないでくれと懇請するや、同被告人は言葉をやわらげ、由良は自分の親友であり自分から話しをつけてあげる旨申し向ける等巧みに硬軟両様の方法を用い、考慮を約させて会談は一応終つた。その間同被告人は表の喫茶店に待機している由良猛と電話で連絡をとつたりなどした。伊藤は右会談の次第を内山および並木常務取締役に伝えて善後策を図つたのであるが、同人らは前記会談の経過等にかんがみ、もし右申し入れに応じなければ、由良の関係する新聞、雑誌等に右融資問題のことを同銀行の不利益記事にして掲載公表し、同銀行の信用を失墜させるような処置に出るかもしれない旨困惑畏怖した結果、同日午後五時頃被告人小寺および由良の右要求に屈してやむなく五〇万円の出金を約し、その翌一四日、同所において、右伊藤から、東洋経済興信所に対する第一種会員並びに賛助金名義のもとに金三〇万円、三協商事に対する支払名義のもとに金二〇万円、合計五〇万円の交付を受け、もつて右両名共謀して金五〇万円を喝取した。
第五、これよりさき鈴木一弘は群馬県前橋市本町二五番地株式会社大生相互銀行(当時の資本金二億円、発行済株式数四〇〇万株)の株式三万五、二〇〇株を取得し昭和三五年六月二四日名義書換を了したのであるが、被告人小寺は同年七月二八日ころ右銀行に赴き、同銀行代表取締役社長高畠佳次(当五八年)に対し、右東洋経済興信所の特別会員に加入してもらいたい旨強硬に申し入れもし応じなければ同銀行の経営や日常業務にどのような支障を生ずるかもしれないことを暗示した。そこで右高畠は直ちに重役会を開いて協議した結果、鈴木一弘の北陸銀行に対する株式の買集め等の事例から、この際無下に断るにおいては、株式を担保とする融資の申込みあるいは株主総会等において株主の権利行使に藉口するいやがらせ等により同銀行の経営や日常の業務遂行上どのような支障を生ずるかもしれない等の話しが出て、結局、高畠は鈴木がすでに自社の株主であること、被告人小寺が鈴木を背景にして来ているものであることなどを考慮し、前記のような不安困惑の念にかられて畏怖した結果、やむなく一口三〇万円の会員に加入することを応諾し、そのころ同銀行において右金員を同被告人に交付し、もつて同被告人は入会金名義のもとに現金三〇万円を受領してこれを喝取した。
第六、これよりさき鈴木一弘は東京都中央区八重洲一丁目三番地安田信託銀行株式会社(当時の資本金二四億円、発行済株式総数四、八〇〇万株)の株式一万株を取得していた。昭和三五年七月二七日東洋経済興信所代表取締役鈴木一弘名義で同信託銀行社長斎藤利忠宛に右興信所を支援してくれるようとの書簡が送られてきていたのであるが、被告人小寺は同年八月中旬ころ、右信託銀行に赴き同銀行総務部長石田茂市(当五七年)に対し、右興信所の特別会員に加入し、入会金五〇万円を出してもらいたい旨申し入れ、もしこれに応じなければ同銀行の経営や日常業務にどのような支障を生ずるかもしれないことを暗示した。そこで右石田は鈴木がすでに自社の株主となつていること、同被告人は鈴木を背景として来ているものであることを考慮し、無下に断るにおいては同銀行の経営や日常業務上にどのような不利益が生ずるかもしれないと不安困惑の念にかられて畏怖した結果、やむなく一口二〇万円の第三種特別会員に加入することを応諾し、よつて同年八月二〇日ころ、同銀行において同人より同銀行常務取締役営業部長今井正三郎振出名義の金額二〇万円の小切手一通の交付を受け、もつて入会金名義のもとにこれを喝取した
ものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
被告人小寺の判示第一ないし第六の各所為はいずれも刑法二四九条一項(なお共謀にかかるものについては六〇条)に同荒木の判示第一ないし第三の各所為は同法六〇条、二四九条一項にそれぞれ該当するところ、以上はそれぞれ同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により被告人小寺については犯情において最も重いと認める判示第四の罪の刑に法定の加重をし、同荒木については犯情の最も重いと認める判示第一の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内でそれぞれ量刑すべきところ、およそ興信業務に伴う入会の勧誘行為そのものおよび証券市場において株式を売買して利得すること自体は、現代資本主義社会の下における営業の自由としてなんら非難される筋合のものでないこと固よりである。しかしながらこれら適法行為といえどもその手段、方法においていわゆる社会相当性の範囲を逸脱するときは実質的違法性を帯びるにいたることまたもちろんであり、それが刑法恐喝罪の構成要件を充足するときは、同罪の成立は免がれない。恐喝罪は財物その他の財産上の利益を供与させる手段として、相手方の反抗を抑圧しない程度の脅迫を加え、相手方の意思決定の自由を制限することによつて財物その他の財産上の利益を供与させることによつて成立する。ここに脅迫とは相手方に恐怖心をおこさせるような害悪の告知を意味するが、判例は恐怖、畏怖のほかに嫌悪、困惑など比較的程度の低いものでも、それが畏怖という範疇に含まれるものであるかぎり、恐喝罪を構成するものとしている。即ち、(「人を困惑せしめ又は不安の念を生ぜしめてこれによつて意思決定の自由を制限する場合」を含めるのである(大審院昭和八年一〇月一六日判決、集一二巻一八〇七頁)、なお準備草案三五七条は、困惑を手段とする場合を準恐喝罪として、これに対しては恐喝罪よりは軽い刑を規定している。)。しかして困惑畏怖行為に当るか否かは行為の際の具体的事情を前提として一般人をして困惑又は不安の念を生ぜしめるに足る害悪の告知がなされたか否かによつて決せられることになるが、右の告知は明示、黙示を問わず、動作や態度などで暗示するのでもよいわけである。興信業務に伴う会員獲得のための勧誘行為も一般的にいうと、商品などの広告に多少の誇張が伴なうのは通常の事態であること、保険の勧誘や寄付の募集に多少の執拗さが伴うのも通常の事態であることなどを考慮すれば、多少の誇張、詐言、執拗さがあつてもこれを一概に違法ときめつけることはできないわけであるが、本件においてさきに認定したような風評のあつた鈴木一弘を背景として(これは、鈴木一弘の所為が刑法恐喝罪の規定に触れるかどうかには関係ない事柄である。)、執拗な勧誘が行われたこと、脅迫の言辞もある程度抽象的で具体性を欠いていたものがあるにしろその態度、前後の状況などからみて、明示、黙示の害悪の告知があつたと認められること、それによつて各被害者は株式を担保とする金融の申込をおそれたり、株主権の行使に藉口するいやがらせをされるのではないかと不安がつたり、さらには未回収の融資を不当融資として被告人らと関係をもつ雑誌に登載されることを畏れる等その程度にかなり差異があるけれども、いずれも畏怖した結果、それぞれほとんど利用するつもりもないのに多額の会員加入を余儀なくされたものであつて、右に認定する部分に関する限り恐喝罪の成立は否定し難く、その犯情も決して良いとはいえない。しかしながら他面、被告人らには年令五〇歳の現在にいたるまで前科、前歴なく、しかも、全額を各被害者に返還してもはや実害はなきにいたつていること、それぞれ転職して、新らしい職業に精励している事情、さらに最も強調しなければならないことは、被告人らの害悪の告知の程度、方法以上にあわてふためきひたすら会社の経理内容の公表をおそれたり、株主総会が波乱なく終わることを願う等のあまり、本件被告人らの勧誘を峻拒できない会社役員並びに渉外担当職員のふがいなさであり、彼等は会社のためと思つて結局は株主の損失において自己の地位の保全と明哲保身に終始していることの自覚に徹していない点であり、それが本件のような犯罪を助長しているとすら考えられる一事である。会社役員らは紛飾決算などのごまかしをすることなく自らの姿勢を正すことによつて堂々とこのような不正に対決する心構えに立つことこそ肝要であろう。この意味において被害者側にも責任の一半を負うべきものがあると考える。よつて被告人両名に対し前記所定刑期範囲内において主文第一項の刑を量定し刑法二五条一項を適用してそれぞれ主文第二項の期間右刑の執行を猶予し、訴訟費用の負担につき刑訴一八一条一項、本文、一八二条を適用して主文第三項の言渡しをする。
(無罪の理由)
本件公訴事実中、被告人小寺に関する主文掲記の二個の事実中、群馬銀行関係については、本件行為当時鈴木が上場株でもない同銀行の株式を取得する可能性に乏しくまた実際上も一株も持つておらなかつたこと、従つて二〇万円の入会を拒絶されたからといつて、そのため鈴木や被告人小寺が同銀行の株式を買集めて株主としての権利行使に藉口するいやがらせ等をする可能性は証拠上とうてい認められず、また常務取締役たる茂木憲二の証人尋問調書を検討してみても一〇万円はいわゆる「おつきあい」として出したものであると述べているところで、当裁判所としてはいわゆる「おつきあい」ということが当然に恐喝罪を構成しないとするのでないこともちろんであるけれども、証拠上困惑畏怖による恐喝罪を認定するに足る犯罪の証明なきものといわざるをえないこと、またフジ製糖関係についても、本件の事実は、証拠上認められるようにこれより先同銀行には鈴木一弘によるいわゆる「買占め事件」があり、これが落着した後で、しかも鈴木一弘が昭和三五年一二月恐喝罪として公訴を提起された後の昭和三六年九月下旬ころにいたり、かねて被告人小寺が一口二〇万円の金員加入を申し入れていたのに対して約一年目に賛助の趣旨で五万円の小切手一通を交付したのであつて、証人篠崎秀之、同松沢郷司の尋問調書その他の証拠によつても、この金を出さなければ再び同会社の株式を大量に買い占め大株主としての権利行使に藉口するいやがらせ云々の旨を暗示して脅迫しその旨困惑畏怖して右五万円の小切手を交付したとする心証を形成するには至らない。結局主文第四項掲記のとおりいずれも犯罪の証明がないものとして刑訴三三六条後段により無罪の言渡をする次第である。
(検察官調書の任意性について)
なお、当裁判所は、検察官が取調べを請求した被告人小寺の検察官に対する供述調書三通につき、任意性に疑いがあるとしてこれを却下し、その証拠能力を否定したのであるが、この点につき立会検察官から論告において特に右決定が不当である旨の意見が述べられたので、当裁判所の見解を明らかにしておきたい。当裁判所として、今回のように公判廷において被告人の口から公然かつ明確に、検察官の勾留中の取調べにおいて両手錠、腰繩つきのまま取調べられた旨の供述を聞いたのは、初めてのことであり、しかも右供述部分は質問、応答の経過からみてきわめて自然かつ信用するに足るものであると認められる。また当裁判所が右質問、応答のあつた直後、公判廷において立会検察官に対し、東京地方検察庁においてはそのような取調べ方法がとられているかどうかについて糺したところ、立会検察官からそのような取扱いがむしろ通常であり、戒護の必要上やむをえない措置である旨の答弁があつたことからも、一般に右のような取調べが行われている実情にあることを窺知することができる。
さて、本件についてみるに、勾留処分関係の記録によれば、被告人小寺は昭和三八年四月一九日前掲フジ製糖に対する恐喝被疑事実につき刑訴六〇条二号、三号の理由があるとして裁判官の勾留状を執行され(同時に接見禁止の決定がなされた)、警視庁留置場に留置され、右勾留は検察官の期間延長請求(刑訴二〇八条)が認められてさらに一〇日間延長された後同年五月八日公訴が提起され、次いで同年六月一三日、同年七月八日、同月一三日に追起訴が行われたのであるが、その間同月九日保釈により釈放されたものであることが明らかである。そして同被告人および、証人藤脇宏太の公判供述その他の関係証拠によれば、同被告人は右身柄拘束(逮捕、勾留)中司法警察員阿部敏彦によつて六回、同佐々木美文によつて四回、同大和田重治によつて六回にわたり警視庁内の取調室において取調べられ供述調書が作成されているほか、昭和三八年五月四日、同年六月八日および同年七月八日の三回にわたり東京地方検察庁三階の検察官取調室において検察官伊東幸人の取調べを受けたこと、証人平川良三(警視庁診療課長医師)がカルテに基づき当公判廷において供述したところによれば、昭和三八年四月二〇日初診の際同被告人は昭和三六年一〇月交通事故により頸椎の靱帯弛緩および頭蓋内出血をおこしその後遺症があり時々頭が痛むこと現在はよく寝られないとの主訴があつたので本人の持参していた精神安定剤の使用を許可し、次いで同月二二日、同年五月一日、六日、九日、一〇日、一五日、一八日、二一日、二二日、二九日、同年六月一日、三日、一一日、一二日、一三日、一七日、二一日、二二日というように前後一九回にわたり診察、投薬ないし同被告人所持の薬の使用を許可したほか、自宅から取り寄せたギブスの着用を許したり、五月二二日から二九日までの間に東京警察病院において受診させ、六月一七日、一九日、二〇日には国立東京第一病院において受診させそれぞれ手当を受けさせていること、同被告人の場合は勾留中多くみられる詐病などではなく、房内において治療を要したし、また専門医の診療を要するものと認めて右の措置を採つたというにある。
ところで勾留中の被疑者が捜査官から手錠をかけられたまま取調べを受けた際作成された供述調書の任意性が争われた事例は二、三にとどまらないところであり、この点については種々の説があるけれども当裁判所としては、公判手続に関する刑訴二八七条一項の規定が当然に捜査段階に準用されるものとは考えない。いいかえると被疑者が暴力を振いまたは逃亡を企てた場合以外は常に手錠をはめないで取調べなければならないとまでは考えない。要は検察官として、各具体的場合における諸般の状況を勘案して必要最少限度にとどめるべきものと考えるのである。さきに東京高等裁判所昭和三一年一月一四日刑事第八部が、手錠を施したまま取調べた場合、その他の事情をも綜合して、自白の任意性に疑いがあると判示したことが契機となつて従前の昭和二八年三月一九日附刑事局長依命通牒、同日附矯正局長事務代理通牒のほかに重ねて法務省が通牒(昭和三一年六月一一日刑事一三一五四号法務省刑事局長事務代理、矯正局長通牒)を発したことは、捜査にあたる検察官としては当然熟知していなければならないところである。それによると「一、被疑者等の年令、経歴及び心身の状況、被疑事件の性質並びに調室の構造、位置及び周囲の状況等を勘案し、特に逃走、暴行、自殺のおそれのないことが明らかな場合は検察官調室において手錠を使用しないこと」と定め、以下二ないし五において右手錠を使用しない場合の拘置所等との連絡その他の措置につき具体的に規定されており、概ね妥当な内容であると考えられる。これを本件被告人小寺について考えてみるに、同被告人は右検察官の取調べ当時年令五〇才に近く、さきに認定した学歴と経歴を有し、しかも前記のごとく当時療養を要する心身の状況であつたこと、被疑事実は恐喝とはいえ興信所の会員加入の勧誘に関連して各被害者を困惑畏怖させて入会金名義で金員を受領したというのであり、金員受領の事実そのものにはなんら争いがなく、受領の際の相手方との応待の状況、鈴木一弘が当該株式を取得しているかどうか、いるものとしてその数量、被告人小寺が鈴木一弘を動かしうる立場にある者かどうか、他の正常な興信所の業務形態との類似性ないし相異点等を比較検討し、被告人らの所為が社会的相当性の範囲を超え違法であるかどうかを科学的に判断して捜査を進めるべき案件であつて、徒らに理詰の押しつけ質問をしても捜査の効果を期待しえない案件であること、右検察官の取調室は東京地方検察庁の三階にあり、取調べ中は終始検察事務官藤脇宏太が立会して進められたもので、時あたかも五、六、七月の初夏の候とて窓は多少開かれていたとはいえ、当時被告人小寺に飛び降り自殺を懸念しなければならないような状況は認められなかつたし、右調室は外来者の通行する廊下に出るまでに中廊下があつて二重構造となつていること等を考えると、法務省の通牒にいう特に逃走、暴行、自殺のおそれのないことが明らか場合にあたり、同検察官としては取調べ中、手錠を使用すべき場合でなかつたと認めざるをえない。
最高裁判所昭和三八年九月一三日第二小法廷判決(集一七巻八号一、七〇三頁)は、公職選挙法違反被告事件において、「勾留されている被疑者が捜査官から取調べられる際にさらに手錠を施されたままであるときは、反証のない限りその供述の任意性につき一応の疑いをさしはさむべきであると解するのが相当である」旨を判示し、この問題に関する基本的な考え方を打ち出している。ところがこの判例はその具体的適用において、忽ち反転して、本件は、「終始おだやかな雰囲気のうちに取調を進め、被告人らの検察官に対する供述はすべて任意になされたものであることが明らかである」と原審が認定しているから、違憲の主張は前提を欠くとしているのである。即ち、原判決が、任意であることの反証が立証されていると認めたものであるとするのである。元来、任意性の立証責任は検察官にあるのであるから、手錠を施されたままの取調べが行われた際の供述は、一応任意性につき疑いをさしはさむべきものとする以上、それにもかかわらず任意に行われたことを証明する必要は、もとより検察官にあるといわねばならないわけであるが、取調べが終始おだやかな雰囲気のうちに行われたことをもつて検察官が右証明の必要を充たしたものといえるであろうか、疑いなきをえない。なぜなら、手錠をかけたままの取調べは、供述者に対する心理的圧迫の疑いがあるため任意性に問題があるのに、その疑いが取調べの雰囲気がおだやかであつたというようなことで解消するであろうか。手錠をかけられたまま取調べられたため心理的圧迫がありながら、外面的には終始おだやかな取調べが行われることも当然ありうることであり、むしろこのような状況の下で取調官に抗して兇暴な行動をとることの方がまれではなかろうか。当裁判所としては、いやしくも手錠を施したまま取調べた供述調書はすべて任意性に疑いがあるというのではない。例えば、逃走、暴行、自殺、証拠湮滅のおそれの濃厚な強盗殺人等の兇悪犯や麻薬犯の場合には具体的状況により例外を認めることはやむをえないと考える。検察官の前掲法務省の通牒で詳細な手続規定が示されているにもかかわらず、右例外の場合だけでなく、本件のような通常の事件においてさえ、手錠を施したまま取調べているとすれば、おそらく手続の煩雑をきらうためと戒護要員の手薄のためとであろう。しかしながら、いやしくも犯罪の捜査ならびに公訴提起の権限をもち、やがて当事者となるべき相手方たる被疑者を自らの取調室において取調べる検察官が被疑者を両手錠、繩つきのまま取調べること、換言すれば人的もしくは施設面の改善によつて解決すべき問題を両手錠、繩つきという直接的有形力によつて代置させてよいものであろうか。それはあまりにも非人間的であり、むしろそれ自体強制というに近いものではあるまいか。このような取調べ方法は被疑者に卑屈感と自己嫌悪の情を懐かせ、自白を誘導するおそれが多分にある。検察官にそのような意図がなければ幸いである。
刑訴三二一条一項二号は、所定の要件のもとに検察官の面前調書に伝聞証拠の許容性を認めており、しかもその範囲は同三号の司法警察員等の場合よりはるかに広汎かつ強力となつているが、この規定は果して検察官が被疑者を両手錠、繩つきのまま取調べるような場合を予想した上でなおかつかかる伝聞証拠の許容性を認めたものであろうか。きわめて疑いなきをえないところである。
立会検察官は、右供述調書の任意性を補強する証拠として、勾留中弁護人と被疑者(被告人)とを捜査検察官の指定する時間に二回にわたつて接見させた事実があることをもつてする。しかし、弁護人は被疑者が接見禁止決定を受けていると否とにかかわらず被疑者との交通権が保障されているところであつて、右のごときはなんら任意性立証に資するものではない。否、むしろ当裁判所としては本件のような内容の事件において、一回に僅か一五分間の接見時間を指定することはあまりにも短かきに過ぎるとの感を懐かざるをえない。
いうまでもなく刑事裁判による実体的正義の実現は、刑事手続における正義を通じて達成されなければならない。結論として、当裁判所は前掲検察官作成の供述調書三通は、任意性を欠き証拠能力のないものと断ぜざるをえないのである。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 寺尾正二)